三 暮らしの中心 山と川



  山の仕事

 遠山谷の全体の九七.五パーセントが、山に囲まれています。
山は、遠山に住むものにとってはかけがえのないもので、山の仕事をすることによって、人びとは暮らしを
立ててきたのです。
 山のない人たちも、他人の山で仕事をしてお金をかせぎました。
だから、山は山を持っている人のものだけでなく、みんなのものだと言われたくらいです。
ところで、山仕事をする人のことを、遠山地方では「ヤマシ」とか「ヒョウ」と呼んでいました。


 山仕事にもいろいろありますが、だいたい次のように分けられています。
そま、こびき、まくら木けずり、山落とし、炭焼き、山さく、たき木とりなどです。
 いずれにしても、山仕事はたいへん危険な作業です。
いまみたいに道路も開けていないし、機械もなかったので、すべてが人間の手によって行われています。
そのために多くの人が木の下じきになり、木に打たれたりして亡くなっています。

「そま」は木をきる人のことを言い、「こびき」は木を引き割ったり、のこぎりで引いて板や柱を作ったり
します。
「まくら木けずり」は、鉄道のレールの下にしくまくら木を作る仕事です。
「山落し」は、そまがきった材木を、高い山から谷に落す仕事をしました。
遠山の谷は険しいので、木を谷に落す場合は、いろいろな方法で、できるだけ木をいためないようにします。
これがスラ、トメ、ウス、サデなどと言うもので、材木を使ってうまく作りました。

 山仕事のなかで、最も危険だとされていたのが「きんまひき」です。
いまみたいに機械がないので、遠い所から材木を運ぱんしてくるには、どうしてもきんまひきが必要だった
のです。
きんまの道を作るには、丸太をしき並べて作りますが、地形の悪い所とか岩場には木を組み、さんばしを作
ります。
ときには谷から谷を渡ることもあるし、一つまちがうと谷底に落ることもあります。

「炭焼き」も、昔はたいへん盛んでした。
いまのように石油や電気も使わないので、冬の暖房にはどうしても炭がいります。
戦後しばらくして、山で炭を焼くけむりは消えてしまいましたが、山の村にとってはとても大事な仕事でした。

「山さく」と言うのは、山の草や木を刈り、かわかしておいて、上の方から火をつけて焼きはらいます。
この上にそばとかあわの種をばらまきし、下の方から上に向って掘り起こしてゆきます。
肥料は、焼いた草木の灰です。

たんぼの少ない遠山では、山さくをして雑穀をとり、米の節約をしました。

「まき」を集めることも、冬の大きな仕事の一つでした。
どこの家にも大きないろりが切ってありました。
毎日火をたくので、たき木は一日もなくては過せません。
 でも山を持っている人は、そんなにまきには困りませんが、山のない人は大分苦労したものです。
山持ちの人に分けてもらうわけですが、その場合どうしても近いところは分けてくれないので、遠くから運ん
でこなければなりません。それも全部しょいご(しょいた)にたばねて肩で
運ぶわけです。
この仕事の多くは、女の人たちがやりましたが、たいへんな重労働でした。

 

  川の仕事

山の仕事のなかでのべておきましたが、山から切った材木は、山落しして谷に集めます。
そして、きんまとかスラなどを使って、だんだんと川べりに寄せていきます。
木が集まると、こんどは流れを利用して木材を流すことになりますが、このことを川狩りと言います。

この川狩りはなるべく夏をさけて、秋から冬にかけて行われます。
夏はどうしても雨が多く、遠山川が増水し、材木を天竜川に流して大きな損害を受けることが多かったからです。
 しかし、冬の川狩りは冷たい水に入って仕事をしますから、たいへん辛い仕事です。
ときには、足にはいた「わらじ」がかちかちに凍って、石にはりつくようなこともあります。
そのうちに足が馬鹿になって、あまり冷たさを感じないようになってきます。
そんなときには、ヒョウはかわらで火をたいて、冷たい足をあたためます。

ヒョウのおべんとうは、あわせっこと言って大きなメンパにつめたもので、二回に分けて食べます。
十時ころ食べるのがひるめしで、二時ごろ食べるのをニハチと言いました。
べんとうのなかみは麦めしに、おかずは生みそ、つけもの、煮物などで、たまにはイワシやサンマもありました
が、いまから考えるとかなりお粗末なものでした。

川狩りは奥地から川下へ流していきますが、流れのゆるやかな所もあるし、大きなふちもあります。
また場所によっては、ヒョウ泣かせという難場もありました。
それが大島の「アラ」というところです。
 ここは谷がつまって、流れがものすごく急なところです。
しかも大きな岩が川の中にありますから、流れてきた材木が岩にかたくささって、やぐらを組んだようになります。
こうなると、材木を引き抜いて川の流れを作らないと、川狩りの仕事がとまってしまいます。
 しかしこれは大変危険な仕事で、誤まると急流にのまれて、いのちを落すことになります。
ですから川のなかで作業をするヒョウは、いのちづなというのを腰につけ、そのはしを岸にいるヒョウがしっかり
とおさえております。

川のなかで仕事をするヒョウは、水にも強く、うでの立つヒョウで、一番たかい賃金をもらいました。
いまはもうみんな死んでしまいましたが、遠山の谷でヒョウ三人しゅうと呼ばれた人たちがいました。
 それは大島の熊谷愛作、木沢の山崎藤五郎、昭和通りの鎌倉静という人たちです。
この三人のヒョウしゅうは、「アラ」の難場を越すにはなくてはならない名人ヒョウと言われました。

遠山では、しろうとヒョウのことを、トチモチと呼びました。なぜかと言うと、いつも仕事をトチル(しくじる)、
木の上にのぼって仕事をしても、腰がすわらずトチトチするからだと言われておりました。
いずれにしてもまだヒョウがしろうとで、あまり仕事ができないヒョウのことです。

「アラ」の悪場を越すと、ヒョウたちはほっとします。川の流れがよくなり、仕事がはかどるからです。

いままでお話したのはバラ狩りという方法ですが、川狩りにもいくつかの方法があります。
大きな川狩りになると、川にセギとかスラなどを作って木を流します。
これは川の水をため、トヨのようにして材木を流します。
このようにすると、大島の「アラ」のような所もらくに材木が流れます。
 ただこのしかけを作るには、たくさんのお金がかかるので、規模の大きな川狩りでないとできなかったのです。
王子製紙という大きな会社が、明治二十九年から大正にかけて村の共有林をばっさいし、川狩りを行いましたが、
このときは木曽谷や飛弾の方からも、たくさんのヒョウが来て、大がかりな川狩りをしました。
多いときは一、五〇〇人もが仕事をしていたそうです。

昔はこのようにして、川の流れを使って材木を運ぱんしました。
しかし戦争中にダムができたことや、道が開らけて自動車で運べるようになり、川狩りはもう見ることはできな
くなりました。


 谷間のむらの仏たち